「七福神」の謎(1) 国境なき神仏ユニット結成のルーツ

文=本田不二雄

「七福神」結成は室町時代

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アイドルグループにならって今風に称すれば、神々ユニット、あるいは「神セブン」とでもいえようか。大黒天、毘沙門天、弁財天、恵比寿、寿老人、福禄寿、布袋和尚。この、起源も出自も伝来もバラバラな神仏は、いかにして集まり、一般庶民の信仰に組み込まれていったのだろうか。

その「正説」によればこうだ。ときは徳川家康公の時代。家康はみずからの宗教ブレーンのひとり、天海大僧正に向かって問うた。

「国を富まして家を栄えさするには、いかにするべきであるか」

すると大僧正は、国家鎮護の教えを説く『仁王護国般若波羅蜜多経』(新訳仁王経)の意を説き示し、「この経典を読誦し、よく理解して、この経のごとくに修行なさること」だと述べ、「経にも七難即滅、七福即生うんぬんと書かれているように、天災地妖の難もなく、国土侵略の憂えもなく、民安く国治まるとあります」と説いた。

「では、その七福とは何ぞや」家康はさらに問うた。

「経にはいろいろと説かれておりますが、わかりやすく申せば、有福、威光、愛敬、清廉、大量、寿命、人望の7つこそ最も得難き福徳でありましょう」そう述べた大僧正、ただちに筆を執って、それぞれに対応する大黒天、毘沙門天、弁財天、恵比須、布袋和尚、寿老人、福禄寿の7つの神名を書き示した。家康は大いに喜び、これらを狩野探幽に命じて描かしめた。これがそもそもの始まりであったという。

しかし、正説は史実にあらず。その始まりは室町時代なかばの京都にあったといわれている。一説には、瓊春なる僧が竹林の七賢人に模して〈大国主命、蛭子命、臼女[アメノウヅメ]、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋〉を一軸に描いたのが、「七福神」が世に出た最初だったといわれている。

竹林の七賢とは、中国の歴史書に書かれた、戦乱の世を逃れて隠遁し、竹林に集まって文学、音楽、詩や酒を好み世を語り憂いたとされる7人をさす。世俗を離れ、精神の自由を謳歌したこの群像はある種の憧れでもあっただろう。七福神は、そのモチーフを借り、いわば七賢人のパロディとして描かれたのである。

しかしそこには、時代の気分が如実に反映されていた。応仁の乱からつづいた戦乱をようやく脱し、殺伐とした世に倦み疲れた人びとは、世俗の憂さを晴らすアイコンを求めた。泣き暮らすも一生、笑い暮らすも一生。笑う門には福が来るというではないか。そんな心情にマッチしたのが、無尽蔵のご利益を誇る福神であり、風流な神仙たちだったのである。

 

民衆に愛された福神選抜

では、なぜこの7神が選ばれたのか。

最初の「七福神図」に大国主命とアメノウヅメが入っている点に注目したい。大国主命は大黒天と同一視されることがあったため、違和感はないものの、当初メンバー入りしていたアメノウヅメは、のち弁財天に交代させられている。このほか、寿老人と福禄寿のどちらかを外し、女神の吉祥天や猩々(能などに登場する伝説上の動物)を加えた記録もある。

つまりかなり長い間、7神の選定は流動的だったのである。それでも現在一般的な7神が定着していったのは、まず、京都の民衆に愛された「恵比須・大黒」のユニットと、仏寺の唱道で広まった大黒天・弁財天・毘沙門天の「三天」が、福神としてすでに根づいていたのに加え、禅画のモチーフだった当初からのメンバー「福禄寿・寿老人および布袋和尚」が外せないアイコンだったからだろう。

結局のところ、「七福神図」は、福神らの御利益もさることながら、選りすぐりのイコン(聖像)があい集い、愉快に遊戯しているその絵面(えづら)にこそ、人びとに愛された理由があったといえそうである。

そして江戸時代、庶民の物見遊山の気運に乗り、これらの神々を祀る七福神巡りが隆盛する。すでにこの時代、大黒天や毘沙門天、弁財天を祀る寺は縁日に多くの参拝客を集める存在であり、農民や漁民、商工業者らは「恵比須講」を組織していた。こういった下地に初夢と宝船の俗信が加わることで、年の初めに福運を願う民衆の心に火をつけ、ゆかりの寺社をめぐる巡礼が流行するのである。

こうして、多様な神々を身近な守護神に引き寄せ、成立した「七福神」だが、そのゆるキャラの原型というべき容貌には、知られざる謎と驚くべきルーツが秘められている。

 

(月刊「ムー」2015年2月号より)

文=本田不二雄

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