「七福神」の謎(2) 「大いなる暗黒」の神 大黒天

文=本田不二雄

インドの鬼神が日本上陸

daikoku
明治期の1円札に描かれた大黒天。

 

ひと振りすれば、ただちに宝を打ち出してくれる小槌を片手に、七宝を満載した大袋を担ぎ、米俵に乗って満面の笑みを浮かべる「ダイコクさん」。すでに室町時代の説話集には、「京都ではどの家にも大黒天と恵比寿の像を並べて祀っている」と書かれており(『塵塚物語』)、中世の末には、現在のわれわれが知る大黒天のイメージがほぼ定着していたようだ。

しかし、大黒天の原像は、そのイメージとはまったく異なるものである。

出自はインドで、本来の名をマカキャラ(摩訶迦羅)といい、その名が意味する「大いなる暗黒(マハー・カーラ)」から「大黒」と漢訳された。神格としては、戦闘・財福・冥府をつかさどる者とされるが、何はともあれ、その容貌がすさまじい。頭髪を逆立て、三面三目六臂で、正面の手は剣を掴み、脇の2手は兎と人をつかんで誇示し、上に掲げたもう2手で象皮を被るというもので、頭上には髑髏、首や二の腕には蛇が巻き付く鬼神の相であった。

『大黒天神法』という和製の経典によれば、その神は「大神力」を有し、尸林(死体の捨て場)の林の中を眷属らとともに毎夜遊行して空を飛び、隠形薬や延命薬といった幻術薬を行者と取引しているが、その代価として人間の生き血と肉を要求するという。

つまり、この鬼神に祈ればさまざまな神通が思いのままになる一方、わが身を奪われるリスクを負うわけである。そのためか、このインド風大黒天はマンダラには描かれたものの、造像され祀られることはまれで、あっても表に出ない厳秘のホトケだったようだ。

 

日本の大黒天信仰

それとは別に、日本における大黒天信仰の源流は、比叡山延暦寺にあった。

大黒天はもともと、天台宗の僧が中国(唐)から日本に伝えたもので、延暦寺の政所(食堂)に厨房の神として祀られたのが最初とされる。いわば大黒天の中国風バージョンである。そのお姿は、冠、鎧姿で臼の上に半跏坐し、右手に宝棒、左手に小袋(金嚢)を持つもの。すなわち、宝棒と鎧で武装することで外部からの災いを除き、財産を象徴する金嚢と穀物を搗く臼によって仏僧らの食を賄う守護神だったわけである。

そして平安時代の後期、日本オリジナルの大黒天像が登場する。頭巾(烏帽子)を被り、狩衣・下袴姿の立像で、左肩に大袋を背負ったお姿である。ただし、おなじみの短躯で丸っこく、笑顔をたたえたダイコク像ではなく、眉をひそめた忿怒の形相であった。

ともあれ、ここで和装の大黒天が登場した意味は大きい。『古事記』に、八十神が稲羽に行ったとき、共に従ったオオナムヂ神(大国主神)に「袋を負わせた」という記述がある。つまり、右像の特徴的な大袋は、延暦寺像の金嚢が転じたものであると同時に、大国主神との習合を物語るものと考えられているのだ。

 

3つの尊格が合体した三面大黒天

大黒天と日本の大国主神が同一視されたのは、大黒と大国の音読みがともに「ダイコク」であることと、農耕の祖で国造りの神である大国主神が、大黒天と同じく富貴をもたらす神だったことによる。

平安時代の末から中世にかけて、この国では神仏の習合が深化した。それに伴い、大黒天の和様化がすすみ、やがて米俵の上に立ち、打ち出の小槌を手にした「ダイコクさん」が登場したわけである。

ところがその裏では、もうひとつの大黒天像が生み出されていた。

大黒天、毘沙門天、弁才天が合体した「三面大黒天」である。そのお姿は三面六臂。まさに合体像にふさわしい異形で、6臂それぞれに各尊の霊験を象徴する持物(アイテム)が持たされている。この三尊はおのおの福徳をもたらす本尊として崇められていたのだが、合体することで三尊の霊験が一体に集約され、あらゆる願望を成就するといわれた。いわばスーパー大黒天である。

それはある意味、同じく三面六臂の鬼神・マカキャラへの回帰という側面をもっていたといえるかもしれない。

というのも、祈祷僧にとって三面大黒は今も、ねんごろな供養を要求し、行者の心持ちを見抜いて、その覚悟を試す「畏怖すべき存在」とされていたのだ。その代わり、祈りが成就した場合の霊験は著しいものであるともいわれている。

ちなみに三面大黒天の場合、またの名を勝軍大黒天といい、戦勝祈願に効験を発揮したといわれる。よく知られているのが、豊臣秀吉の逸話だ。

秀吉は、天下を取る前から京都・圓徳院に伝わる三面大黒天像を常に持ち歩き、合戦にも厨子に入れて携行したとされる。このように、身辺に置き私的に礼拝した仏像を念持仏というが、同像はまさに、秀吉の立身出世を支えた念持仏だったのである。

興味深いのは、秀吉から天下統一の偉業を継いだ徳川家康もまた、三面大黒天を崇めていたことである。山梨県笛吹市の大蔵経寺には、家康が寄進したという三面大黒天像を伝えており、その厨子の扉には「神君様(家康のこと)が当寺に御腰掛(おこしかけ)の砌(みぎり)、住持の海真へ御寄付と申し伝え候(そうろう)」と記されている。

この像を寄進したという天正年間(16世紀末)、甲斐国(山梨県)一帯は秀吉と家康との間でせめぎ合いとなっていた。そんな現場にあえてこの像を安置し、住職に祈らせたわけである。おそらく、打倒秀吉の思いが込められた像であったにちがいない。

 

(月刊「ムー」2015年2月号より)

文=本田不二雄

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