「七福神」の謎(3) 信玄も謙信も祈った戦神 毘沙門天

文=本田不二雄

鎧兜に身を包んだ戦神

bishamon
ヴァイシュラバナ(毘沙門天)のタンカ(宗教画)/制作年代不明。

 

七福神のなかで唯一鎧兜に身を包み、強面の表情を崩さない神。それが毘沙門天だ。インド名をヴァイシュラヴァナという。その意味するところは「よく聞く者」であり、そこから多聞天という名前があてられ、その音写から毘沙門天と呼ばれた。

この神は、インドで仏教に取り込まれて以後、四天王の一員として仏教の護法神となった。世界の中心に聳える須弥山の中腹にて四方を守護する守護神のうち、北方を受けもったのがこの神なのである。四天王の一尊である場合はとくに多聞天と呼ばれ、単独で祀られる場合に毘沙門天と呼ばれている。

霊験(御利益)の象徴である持物は、仏敵を打ち据える護法の棍棒である宝棒(あるいは三つ又の刃を頂く三叉戟)と、宝塔である。

宝塔とは、もとはブッダの遺骨である仏舎利を安置する舎利塔のことで、仏舎利は仏法の呪力の源泉とされた聖遺物である。このため、その多くが宝塔を捧げ持ち、凝視する姿であらわされる毘沙門天(多聞天)は、それだけで護法の諸尊を代表し、著しき霊験をつかさどる神として崇められてきたのである。

そんな武装の守護神が七福神に列せられた理由も、その宝塔(舎利塔)にあった。中世の神秘思想の脈絡では、宝塔は、仏教において様々な霊験をあらわす宝玉=如意宝珠(意のままにさまざまな願いをかなえる珠のこと)と同一視され、毘沙門天は福徳をもたらす神として絶大なる信仰を集めたのである。

その代表的な聖地といえば、畿内では奈良の信貴山長護孫子寺であり、京都・洛北の鞍馬寺が挙げられるだろう。

室町時代中期の公的日記にはこう記されている。「鞍馬に参る。帰るに及び毘沙門一体を持ち帰りて云わく、今日は三日の庚寅にして、六十一回目の寅なりと。貴賤男女、詣でる者およそ二万人ばかりなり」(『蔭涼軒日録』)

鞍馬寺では、特別な寅の日の縁日に、一日2万人もの毘沙門天詣での客がつめかけたという。参詣者には同像が授与され、家々で祀られたこともうかがい知れる。いかに毘沙門天が人気を集めたかがわかろうというものだ。

毘沙門天信仰の歴史は古い。古くは聖徳太子がみずから刻んだ毘沙門天像を祀ったという信貴山にはじまり、平安京の造営とその平和もその加護によってもたらされたという。

平安時代初頭、都の北方鎮護のために毘沙門天を本尊とする鞍馬寺が創建され、都の造営が完了した延暦24年(805)には、新来の毘沙門天像(兜跋毘沙門天)が都の正門である羅城門楼上に安置されている。このほか、都の鬼門に位置する比叡山でも最澄によって毘沙門天像が祀られたという。

それだけではない。当時最大の政治懸案であった征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷征伐も、勝軍地蔵と勝敵毘沙門天のご加護とされ、田村麻呂自身、毘沙門天(北天)の化身として讃えられているのだ。

 

川中島の合戦は毘沙門天対決!

毘沙門天を本尊とする密教の祈祷では、その功徳として、財福、子宝、配偶者の獲得、このほか祈雨や止雨など多岐にわたっている。だが、歴史上特筆すべきは、上杉謙信や武田信玄といった戦国武将がたのみとした怨敵への降伏祈祷だろう。

毘沙門天をあらわす「毘」の軍旗を用いた上杉謙信は、出陣にあたり、本拠地とした春日山城内に設置された毘沙門堂で戦勝を祈願し、毘沙門天に献じた神水を腰筒に汲み、戦勝祈願の神水として諸将に分け与えて出陣したといわれている。

その本尊が山形県米沢市の法音寺に伝わっている。通称「泥足毘沙門天像」という。戦に明け暮れる日々を送る謙信が、久しぶりに春日山城に帰陣したところ、毘沙門堂内で泥のついた足跡を発見。「毘沙門天が共に戦場を駆け巡ってくれた」と歓喜し、そう呼んだと伝わるものである。その尊容は、通常の毘沙門天像とは異なり、片手に多宝塔(舎利塔)を持たず、三叉鉾を立て、腰に手をあてて邪鬼を踏むというものであった。

その仇敵というべき武田信玄も、実は毘沙門天に篤い信仰を寄せていた。

信玄が護持仏とし、寄進した毘沙門天像はいくつか知られているが、その多くは、刀八毘沙門天と呼ばれる異形像だった。「刀八像」は文字どおり8振りの刀を手にした像容だが、もとは「兜跋毘沙門天」の「兜跋」が転訛したものと考えられている。つまり、兜跋に刀八の字があてられ、それに合わせた像になったわけである。

かつての甲斐国武田氏の居館・躑躅ヶ崎にほど近い円光院(山梨県甲府市)に、「武田信玄公陣中守本尊」と呼ばれる秘仏が伝持されている。

その内部には勝軍地蔵尊と刀八毘沙門天が安置されており、由来書には、信玄公はしばしの間もその像を身辺から離さず、出陣しては戦場重営の内に安置していたと書かれ、「百戦百勝、その霊験感応はあえて数えるまでもない」と記されている。

両者が相まみえた川中島の合戦は5度にわたって繰り広げられ、ついに雌雄を決することなく終わった。それは両陣営の兵力が拮抗していたであろうが、守護神の霊験においても甲乙つけがたかったからかもしれない。

 

(月刊「ムー」2015年2月号より)

文=本田不二雄

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