1990年 赤城山徳川埋蔵金発掘ブーム/戦後日本オカルト事件

編=オカルト雑学探究倶楽部

テレビで放送された埋蔵発掘作業

1990年から1995年にかけて、TBS系列で赤城山に隠されている徳川埋蔵金発掘という企画が放送された。現在では大部分が埋めもどされているが、一時は現地に周囲およそ400メートル、深さ50メートル以上という巨大な穴が掘られていた。コピーライターの糸井重里を隊長として地面を掘りつづける映像を、見覚えのある読者も多いのではないだろうか。

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赤城山の発掘現場。現在ではすっかり埋め戻されている。

 

番組には俳優の石坂浩二や作家の井沢元彦などの著名人をはじめ、アメリカの超能力者まで登場して埋蔵金の場所を推理していた。その結果、巨大トンネルや石組みなど、何者かがかつて地底を掘り進んだ「痕跡」が多数、認められている。
しかし――。残念ながら最後まで、埋蔵金が発見されることはなかった。

そもそもなぜ、赤城山で埋蔵金を捜していたのか? じつはこの地では、土地の所有者である水野家が、祖父から三代にわたって埋蔵金発掘を続けていた。当時は三代目の智之(故人)がひとりで埋蔵金捜しを行っており、テレビ局による発掘プロジェクトは、その長い歴史のなかの一ページにすぎなかったのだ。

そもそも初代・水野智義がこの地で埋蔵金発掘を始めたのは、明治19(1886)年のことだった。きっかけは彼の義父にあたる幕府の勧請吟味方・中島蔵人から、埋蔵金の発掘を託されたことだという。蔵人の死の床に呼ばれた智義は、こういわれたのだ。

「公儀在職中、徳川の再興をはかるために、甲府の御金蔵より二十四万両を運びだし、赤城の山中に埋めた」「徳川再興のない今となっては、山中に埋もれたままでは何とも無念。お前たちが掘りだしてくれたら嬉しく思う」

だが、そもそも徳川埋蔵金とは何なのか。話は幕末にまで遡る。当時、江戸幕府は崩壊の危機にさらされていた。また、海外との通商が盛んになるにつれて、国内の金が安いレートで大量に海外に流出するという事態も起こっていた。これに危機感を覚えた大老・井伊直弼は、幕府再興の資金として、そして海外流失を防ぐ手立てとして、江戸城に蓄えられていた御用金約360万両を埋蔵し、隠すことを画策したというのである。

この計画は、安政7年に井伊直弼が桜田門外の変で斃れた後、勘定奉行・小栗上野介らによって実行に移されたとされている。

 

埋蔵金は意外な場所に?

江戸城開城後、御金蔵がカラになっていたというのは有名な話だ。赤城山の埋蔵金も、おそらくはこれに関係したものと思われる。もしも赤城山に、24万両だけではなく、井伊が画策した360万両の埋蔵金も隠されていたとすれば、現在の貨幣価値換算で200兆円以上になるだろう。かくして水野家は、智義が「ここだ!」と定めた赤城山麓の津久田原で、発掘作業を開始したのである。

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明治23年に発見された黄金の家康像。

 

智義は重さ720グラムの「黄金の家康像」「奇妙な文字や地図が刻まれた三枚の銅版」などを見つけたが、埋蔵金には届かなかった。その遺志は息子の義治と愛三郎が受け継ぎ、「石灰で描かれた亀甲の紋様」「赤い粘土のようなもので象られた梵字」などが発見。そして愛三郎の息子の智之に受け継がれた。

その智之は、「ムー」300号の取材で、こうコメントしている。

「120年におよぶ発掘作業の末にたどり着いたのは、埋蔵金はじつは簡単なところに隠されているはずだ、という確信です。もしもここに10カラットのダイヤモンドがあったとしたら、どこに隠しますか? 天井裏? 畳の下? 壁のなかに塗りこめる? いずれもプロの盗人には通用しません。一番安全なのは、たとえばだれの目にも触れる、玄関の下駄箱の上、植木鉢の上です。それが兵法の真理です。要するに、策がある人間ほど引っかかる。無策でいくほど、簡単に見つけられるんです。だから私は今、ヘタをすれば埋蔵金は一昼夜で、あっけなく見つけだせると思っているんです」

徳川埋蔵金は、あと数センチ先に眠っていたのかもしれない。それこそがロマンなのだ。

 

出典=「ムーSPECIAL 戦後日本オカルト事件FILE」(学研プラス)

編=オカルト雑学探究倶楽部

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