週刊ムー語教室/「平将門の首塚」は関東屈指のパワースポット?

文=ムー語講師・こざきゆう

現代までつづく、将門の祟り伝説の数々

知っているようで知らない〝ムー的用語=ムー語〟をわかりやすく解説する、「週刊ムー語教室(毎週火曜日)」。第19回では、関東最恐と畏れられるスポットのひとつ、将門の首塚にまつわる「将門伝説」をまとめます!

 

第19回:将門伝説

【必修!3ポイントでわかる将門伝説】

1:戦いに敗れた平将門の首は、体を求めて宙を舞い飛んだ。首が落下した場所こそ、現在の将門塚

2:戦前、戦後にわたり、将門塚を壊したり動かそうとすると、決まって祟りが起きている

3:将門塚は強力なパワースポットとして、現在も参拝者があとを絶たない

 

平将門といえば、平安時代中期の豪族であり、自ら新皇を名乗り関東地方に独立国を築こうとした猛将として知られています。結局、将門は謀反人として戦(将門の乱)に敗れ、戦死しました。しかし、そこからが、恐ろしい将門の伝説の始まりとなったのです。

masakado3_web(↑平安時代中期の豪族・平将門。940年没)

将門の首は、謀反人ということで京都の東市にさらされました。ところが、腐ることもなく、両目を見開き、夜な夜な「わしの体はどこにある、首をつなぎもう一戦しようではないか」と吼えつづけたといいます。さらに、首は体を求めて空を舞い、東へと飛び去りましたが、武蔵国豊島郡柴崎村(現在の大手町)に落下。三日三晩に渡って雷のようなすさまじい轟音を響かせたため、住民たちは恐れ、塚をつくり首を手厚く供養しました。

この塚は「将門塚」と呼ばれ、その後、現在まで同じ場所に残されています。なぜなら、塚を壊したり動かそうとするたびに、将門の怨念なのか、不可解な事件が起きたからです。

masakado2_web(↑大蔵省の初代庁舎)

1923年9月1日の関東大震災で、大蔵省(現在の財務省)庁舎は焼け、将門塚も壊れました。そこで、塚の跡地を整地し、大蔵省の仮庁舎を建てました。すると、大蔵省の役人や工事関係者に怪我や病気が続出、大蔵大臣・早速整爾ほか14名が亡くなったのです。

「将門の祟りだ」という噂がすぐに広まると、将門の怒りを鎮めるため塚を元どおりにし、毎年、慰霊祭が行われるようになりました。

ところが、次第に慰霊祭もおろそかにされると、再び怪異が起こりました。将門の死から1000年目にあたる1940年6月、大蔵省の本庁舎が落雷を受け、炎上したのです。そこで大蔵省は将門の1000年祭を行うとともに、将門塚に古跡保存碑を建て、慰霊しました。

落雷火災から5年後、太平洋戦争に敗れた日本は、連合国軍の統治下に置かれました。進駐してきたアメリカ軍は、将門塚を壊し、そこに駐車場をつくろうとしました。しかし、ブルドーザーが原因不明の横転をし、運転手が死亡するという事故が起きました。この話を聞いた日本人は、アメリカ軍に「ここには昔の大首長の墓がある」と工事の中止を求め、そのまま古跡として残されました。
1973年には将門塚の向かいでビル工事が行われましたが、怪我人が続出し、2名が死亡するという怪異が起きました。このときも、将門塚を粗末に扱ったためだ、と噂されました。なぜなら、将門塚の横でもビル工事が行われましたが、そちらでは事前に供養を行ったためか、何ごとも起こらなかったからです。 masakado_web(↑東京・大手町にある将門を祀る首塚)

なお、将門塚は、恐ろしい逸話が伝えられる一方、屈指のパワースポットのひとつともされています。徳川家康は江戸幕府を開くにあたって、将門塚への挨拶今を欠かさなかったともいわれます。それが400年に渡る江戸時代の礎となったのかもしれません。

現在でも、将門塚には毎日のように参拝者の姿が見られ、献花が絶えません。みなさんも、近くを訪れた際には、お参りされてはいかがでしょうか。

 

文=ムー語講師・こざきゆう

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