見出し画像

ノストラダムス研究家・五島勉 追悼特集 大予言ブームを巻き起こした稀代の著述家/羽仁礼

『ノストラダムスの大予言』—— 。累計250万部を超える大ベストセラーであり、日本におけるノストラダムス研究書の代表である。その著者、五島勉氏が亡くなられた。はたして五島氏とは、どのような人物だったのか?
改めてここに検証し、その死を追悼する。

文=羽仁 礼

予言者ノストラダムス波瀾万丈の生涯

「一九九九の年、七の月
 空から恐怖の大王が降ってくる
 アンゴルモワの大王を復活させるために
 その前後の期間、マルスは幸福の名
のもとに支配に乗りだすだろう」(五島勉氏訳)

 日本人の大部分が、この四行詩を知っていた時期があった。最初の一行、「一九九九の年、七の月」という一節には、今もデジャ・ヴュを覚える人が相当程度いるのではないだろうか。
「恐怖の大王」「アンゴルモアの大王」という、正体はわからないがなんとなく不安と恐怖を誘う言葉に、1999年という世紀末の年号が重なり、第1次石油ショックで騒然としていた当時の日本社会で、この詩は呪文のように広がり、本当に世界が滅亡するのではないかと悲観して自殺する者もいた。
 当時からけっこうネクラの少年だった筆者なども、本書を読んで厭世観(えんせいかん)をさらに強めると同時に、世界が終わるという予言にそこはかとない安堵(あんど)を感じたことも事実だ。

画像1

1562年に描かれた、ノストラダムス58歳のときの肖像画。生前に描かれた唯一の肖像画であり、当時の容姿に近いものではないかと思われる。

 あらためて解説するまでもなく、これは、16世紀フランスの大予言者、ミシェル・ノストラダムスの有名な予言詩である。
 ノストラダムスは、当時使用されていたユリウス暦の1503年12月14日、プロヴァンス州サン・レミの公証人ジョーム・ド・ノートルダムとその妻レニエール・ド・サン・レミの長男として生まれた。両親はいずれも改宗ユダヤ人の子であったらしい。 
 15歳前後(1518年ころ)にアヴィニョン大学に入学したようだが、その後大学を離れたようで、1521年から1529年まで各地を遍歴(へんれき)1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。
 1530年代初頭には、人文学者ジュール・セザール・スカリジェに招かれてアジャンに移住し、1531年にその町で最初の結婚をしたようである。しかし、まもなく妻子を病気で失い、また気難しいスカリジェとも不仲になった。さらに1538年にはトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたこともあり、長い旅に出た。
 遍歴中のノストラダムスについては、さまざまな伝説がつきまとっている。
 代表的な逸話としては、ある旅の僧の前にひざまずいたところ、その人物が後にローマ教皇シクストゥス5世になったというものや、ロレーヌ地方のフロランヴィルの領主の居城に逗留したとき、白豚と黒豚の運命を予言したというものがある。
 1546年には、ペストが流行していたエクス・アン・プロヴァンス市から乞われて治療に従事し、その後プロヴァンス州サロン・ド・クローに落ち着き、死ぬまでこの町で過ごした。
 1553年には町の名士として公共の泉の碑文を起草、1550年代後半にはクラポンヌ運河の建設に出資したりもしている。
 こうした活動と並行して、1年間の出来事を予言した暦の刊行を始め、これが評判を呼んで1555年5月には、『予言集』の初版を出版した。
 当時の国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けたのは、この『予言集』出版の直後であったが、時期を考えると、『予言集』ではなく暦の評判が王宮に届いたことが理由と考えられる。
 1564年、新しく王に即位したシャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の途上、わざわざサロンに立ち寄って、市内のアンペリ城でノストラダムスと謁見(えっけん)した。別の機会にアルルに逗留した際にはノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜(かし)したという。
 その後ノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられ、1566年7月に死亡した。

画像2

ノストラダムスが晩年をすごした家(現在はノストラダムス博物館になっている)に展示されている、現存する最古の『百詩篇集』完全版。

画像3

患者を治療するノストラダムスの姿を再現したロウ人形。『ノストラダムスの大予言』は、奇跡的な彼のペストの治療シーンから始まる。

各マスコミが報じた「大予言」著者の死

 ノストラダムスの名は、『ブリタニカ』をはじめとする欧米の百科事典には、歴史上の人物として必ずその名が掲載されていた。しかし、日本ではごく一部の、それもかなりコアなオカルト・ファンの間で名が知られていた程度であった。
 その状況を一変させたのが、五島勉氏が1973年に著した『ノストラダムスの大予言』である。
 本書は累計で250万部を超える大ベストセラーとなって、翌年には映画化され、以後続編や、他の研究家によるノストラダムス研究書が続々と刊行されるという、いわば「ノストラダムス現象」ともいうべき状況が生じた。

画像4

累計250万部を売り上げた大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』。「一九九九の年、七の月」というフレーズは、多くの日本人の記憶に刻まれた。

 その五島氏が6月16日、誤嚥性肺炎で死去した。
 2年ほど前から心不全などいろいろな病気を発症して入退院を繰り返していたというが、6月上旬にまた入院し、やがて食事も摂れなくなってそのまま亡くなったという。享年90だから、天寿を全うしたといえるだろう。
 その死が公表されたのは7月も下旬になってからのことで、7月22日付朝刊各紙は一斉に死亡記事を掲載した。

 死亡記事の場合通常は、本人の名前と享年が冒頭に来るのだが、五島氏についてはほとんどの掲載紙が、「ノストラダムスの大予言」とタイトルをつけていた。それほどに五島氏といえばノストラダムス、ノストラダムスといえば五島勉という認識が確立されていたということだ。

 では、その五島氏とはどのような人物だったのだろうか。まずはその足跡をたどってみよう。ただ、残念ながら筆者は生前の五島氏に面会する機会には恵まれなかったので、以下に述べることは、生前に氏が行った各種インタビューなどでの発言をもとに、一部筆者の推測も混じっていることを最初におことわりしておく。

フリーライターとして数々の著作を執筆

この続きをみるには

この続き: 5,512文字 / 画像5枚
この記事が含まれているマガジンを購読する
マニアックなロングインタビューや特異な筆者によるコラム、非公開のイベントレポートなど、本誌では掲載しにくいコンテンツを揃えていきます。ここで読んだ情報は、秘密結社のメンバーである皆様の胸に秘めておいてください……。毎月30~40本投稿あり。

ムー本誌の特集記事のほか、ここだけの特別企画やインタビュー記事、占いなどを限定公開。オカルト業界の最奥部で活動する執筆陣によるコラムマガジ…

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

ネットの海からあなたの端末へ「ムー」をお届け。フォローやマガジン購読、サポートで、より深い”ムー民”体験を!

ともに深淵へ。
6
スーパーミステリー・マガジン「ムー」の公式サイトです。 ウェブマガジン「ムーCLUB」にて極秘情報を配信中。 本誌記事のほかウェブオリジナル企画にて、世界の謎と不思議をご案内します。

こちらでもピックアップされています

ウェブマガジン ムーCLUB
ウェブマガジン ムーCLUB
  • ¥900 / 月

ムー本誌の特集記事のほか、ここだけの特別企画やインタビュー記事、占いなどを限定公開。オカルト業界の最奥部で活動する執筆陣によるコラムマガジンです。なんだかんだ、毎月30~40本投稿あり。一部記事は全文公開します。