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千利休はキリシタンだった!? 織田信長の野望を支えたイエズス会の謎/中村友紀・加治史観の世界

信長、秀吉、家康らが覇を競った戦国時代。その背後にはイエズス会とキリシタン千利休の姿があった!
作家・加治将一氏の論証をもとに、茶の湯とキリスト教の深い関係に迫る。
戦国時代は茶室も”戦場”だった!

文=中村友紀
協力=加治将一

戦国時代とキリシタン

 応仁の乱による京都の大混乱をきっかけに始まった戦国時代。新たな時代に向けて大きく揺れ動く歴史のうねりのなかで、日本列島の覇者となるべく戦った多くの武将たちがいた。彼らが重視したのは、室町幕府が置かれていた京都の支配権だった。そこには三好長慶(みよしながよし)、織田信長、豊臣秀吉という天下人の系譜があり、最終的に徳川家康によって天下統一がなされたことは読者もよくご存じだろう。

 だがこの時代、京都以上に重要とされた地域があった。現在の大阪府にある堺である。そして堺は、日本に伝来したばかりのキリスト教――カトリックのイエズス会の街だった
「信長にしても秀吉にしても、戦国武将がイエズス会を利用してのし上がっていったのは間違いないところです」
 作家の加治将一氏は、そう断言する。加治氏は「加治史観」とでも呼ぶべき独自の視点から、倒幕の際に起こった南朝革命、坂本龍馬の素顔、西郷隆盛の正体など、ベールに包まれた日本史の謎を次々と読み解いてきたことで知られている。また最近では、自身のYouTubeチャンネルでも情報を発信している。
 その加治氏の直近の書き下ろし作が『第6天魔王信長 消されたキリシタン王国』(水王舎)と『軍師千利休 秀吉暗殺計画とキリシタン大名』(祥伝社)だ。タイトル通り、戦国大名とキリシタン、そして千利休の関係について鋭い考察を行った力作である。本稿ではそれらを参考に、戦国時代に対する新たな視点を読者に紹介していきたい。
 加治氏によれば、鍵を握るのは千利休だという。天下統一の背後には、千利休の暗躍があったというのだ。

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YouTubeで、史観ともいうべき歴史を解説する加治将一氏。その鋭い視点は旧来の歴史に異を唱え、まったく新しい日本史を展開していく。興味のある読者は「Kajiチャンネル」で検索を!(写真=YouTubeより)。

千利休はクリスチャンネーム

 千利休は、本名を田中与四郎(よしろう)という。大永2(1522)年に堺で生まれた。家は納屋衆(なやしゅう)と呼ばれる裕福な商家で、18歳のときに当時の茶の湯の第一人者である武野紹鷗(たけのじょうおう)に入門する。
 利休はやがて、わび茶を完成させ、「茶聖」とまで称されるようになる。しかも織田信長、豊臣秀吉という日本史を代表するようなふたりの武将に、側近として仕えるのである。参謀役だから、もちろんただの茶人であったはずがない。

 興味深いのはその名前だ。
 現在でこそ千利休という名前が知られているが、この名前を使ったのは晩年のみで、ほとんどの生涯を千宗易(そうえき)という法名で通していた。
 利休という名前を得たのは23歳のときだと、『仏祖正伝宗派』という書物には書いてある。だが実際にはもっと遅く、1585年に正親町(おおぎまち)天皇から賜ったというのが定説とされる。これは信長の死から3年後のことで、豊臣秀吉主催の「禁中茶会」を利休が仕切ることになり、その際に町人の身分のままでは天皇の前に出られないので、秀吉に頼んで「利休」という居士号を得たというのだ。
 だが、前述したように利休は、それ以前に「宗易」という法名を南宗寺もしくは大徳寺からもらっていた。したがって天皇の前に出ても問題はなく、この説明はおかしいということになる。

 ならば「利休」の由来はなんなのか?
 加治氏はここで、大胆な説を述べる。ヒントは婚姻関係だ。
 利休には生涯にふたりの妻がいた。最初の妻についてはよくわかっていない。1542年に結婚し、1577年に亡くなったということと、戒名が「宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)」だということだけだ。本名も出身も不明なのだが、加治氏はこの最初の妻は、当時の堺や室町幕府の守護者、三好長慶の妹ではないかと推測する。詳細は省くが、その三好長慶の別名は「利長」。さらに、長慶の弟には「実休(じっきゅう)」がいる。利休は妻を娶ると同時に三好一族に入り、義兄弟それぞれからひとつずつ、名前の文字をもらったのではないか、というのである。
 これはつまり、利休が商人から武士になったということも意味する。
 後述するが、利休は秀吉によって切腹させられたという説がある。これには疑問も多いのだが、とりあえず切腹説をとるなら、それはまさに利休が武士だったことを意味している。処刑ならともかく、町人や商人が、武士の儀式である切腹を命じられるはずなどないからだ。
 しかも――。
 千利休の名前については、「セント・ルカ」というクリスチャンネームという意味も含まれている可能性があると、加治氏は指摘する。ルカはもちろん、「ルカによる福音書」のルカだ。すなわち、千利休はキリシタンだったということになる。

加治本

加治将一氏の最近の書き下ろし『第6天魔王信長 消されたキリシタン王国』(水王舎)と『軍師千利休 秀吉暗殺計画とキリシタン大名』(祥伝社)。戦国大名とキリシタン、千利休の関係について考察を行った力作である。

キリシタンの街・堺と戦国大名

 大阪府堺市――。読者は何を思い浮かべるだろう。堺商人で知られた商業都市か、それとも伝仁徳陵などの巨大古墳群か。
 加治氏は戦国時代の堺は、完全なるキリシタンの街だったと語る。日本にキリスト教が伝来後、いち早く教会が建てられ、イエズス会による日本伝道のベース基地になった場所だというのだ。
 当時、堺は商人による自治空間都市だった。しかも、その名はヨーロッパにまで鳴りひびいていた。ポルトガル人イエズス会員で、日本における初期の宣教師であったガスパル・ヴィレラは『耶蘇(やそ)会士日本通信』の永禄4(1561)年から翌永禄5(1562)年の書簡において、次のように書いている。
「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」
「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」
 周囲を海と濠で囲まれた南北3キロ強、東西600〜700メートル、人口8000人ほどの堺は戦とも無縁で、平和に生活ができたというのだ。そしてこの報告により、堺は当時のヨーロッパでもっとも有名な日本の町となった。

豊臣期大阪図屏風

豊臣期の屏風絵。図版右上が堺(資料=Wikipedia)。

 なぜ堺で自由貿易ができたのかというと、それは三好長慶や織田信長といった有力武将の庇護(ひご)があったからだ。堺の強みは、瀬戸内海に直結した国際貿易港を有していたことにある。そこには日本国内はもちろん、外国からも人や富、情報が集まってきた。武将にとって、これを手に入れることが天下を取るためには必須だったのだ。

堺に建てられた最初のキリスト教教会

 そんな自由な空気の街に、ポルトガル商人とイエズス会が入り込んできた。彼らは最初、天皇と将軍という「ふたりの王」がいる京都での布教を目指した。だが、その願いはかなわず、堺へと戻ってくる。そして堺をキリシタンの街へと変えていったのだ。
 堺に初めて本格的な教会が建てられたのは、1581年ごろのことだったという。
 だが、かのルイス・フロイスの『日本史』によれば、堺の教会建設は1585年が最初となっている。どちらが正しいのかはわからないが、ちなみに1579年前後には織田信長の庇護のもと、安土城下にイエズス会本部が置かれている。その信長が本能寺の変で斃れたのは、1582年のことだった。
 堺における教会建設を請け負ったのは、ジュスチノという日本人キリシタンだった。もちろん、大工の棟梁である。教会の屋根には大きな十字架が載せられ、それは堺を訪れる商船にとって恰好の目印になったという。
 また、教会からは堺のすべてが見渡せたというのだが、堺には高台らしきものはないから、3階建てだった可能性もある。
 当時、堺の有力な豪商には、キリスト教に入信する者が多かった。大きな理由としては、商売がらみということがあった。当時のイエズス会には、ポルトガルの貿易部という顔もあったからだ。キリシタンになれば、ポルトガルとの貿易に積極的にかかわることができたのである。

 だが、教会建設の年代については、少し奇妙な気もする。
 イエズス会のザビエルが最初に堺を訪れたのは、1551年。教会建設の30年も前だ。逆にいうと30年間も堺に教会がなかったというのは、不自然ではないだろうか。
 加治氏はここで、弘治3(1557)年に三好長慶によって堺に建てられた、南宗寺という臨済宗の禅寺に注目する。これは本当はイエズス会による教会だったのではないかと、加治氏はいうのだ。
 そもそも当時、日本におけるキリスト教の教会は、南蛮寺(なんばんでら)と呼ばれていた。だから、寺といえば必ず仏教のもの、というわけではない。本来、寺というのは修行の場であり、特定の神や仏を祀る聖域ではないのだ。そこでキリスト教の布教が行われたとしても何の不思議もないというのである。

 加治氏によれば、実際に南宗寺にはキリスト教的なにおいを発するものが今もあるという。とくに目に入るのが、いわゆる「キリシタン灯籠」だ。のちに秀吉や家康による激しいキリシタン弾圧があったにもかかわらず、こんなものが今も境内に残っているのはなぜなのか? それはまさに、彼らの心意気だったのではないかというのである。
 そして、この南宗寺には、若き日の田中与四郎――千利休の姿もあった。彼は後にこの寺から「宗易」の法名をもらうのだが、では千利休とはどのような人物だったのか。

キリシタン千利休と茶室の正体

「私の困惑は利休の立ち位置だ」――そう加治氏は書いている(『軍師千利休 秀吉暗殺計画とキリシタン大名』)。
「足軽から天下人へ、秀吉の奇跡の大出世に関与、密着し、側近を見事にこなしながら、空前の茶の湯ブームを巻き起こしたのみならず、独創的な哲学、所作といったものがおびただしい弟子たちの手によって、ざっと450年にわたって継承拡散され続け、今もって茶道の祖、『茶聖』と仰ぎ見られているのだ」(『同』)
 これほどの人物でありながら、晩年には秀吉に翻弄され、対立し、死へと追いやられた。それが奇妙だと、加治氏はいうのだ。

 そもそも利休の力の源は、どこにあったのだろうか?
 それを知るためにはまず、茶道=茶の湯がこの時代にどのような役割を果たしていたのかを見る必要がある。
 日本で茶を飲む習慣は、平安時代に中国からもたらされた。鎌倉時代になると茶会が大流行し、室町時代には将軍・義政の茶の師匠である村田珠光(むらたじゅこう)によって、亭主と客との精神的なやりとりを重視するわび茶が生まれた。
 このわび茶を茶の湯として完成させたのが、武野紹鷗と弟子の利休だった。そしてちょうどこのころ、戦国武将たちのあいだでは、茶の湯が爆発的なブームとなる。
 その理由について、加治氏はこう推測している。
「武将にとって静かにすごせる場所、あるいは相談相手とふたりきりになれる場所が、茶室しかなかったということです。実際、彼らの周囲は間者、スパイばかりでした。だから茶室は、ほっとすることができる貴重な空間だったのではないか」
 日々の戦い、情報合戦と裏切りで疲労した武将たちは、茶室で心身ともにリラックスすることができた。それが大きな魅力だったというのだ。
 もちろん、それだけではない。

茶室の空間は懺悔室だった?

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