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伊神神宮と太陽の道”レイライン”ーー神道国仕掛けの謎を解く!/古銀剛

2013年10月に挙行された伊勢の式年遷宮。この20年一度の大神事の直前に、知られざる秘儀が執り行われていたことをご存じだろうか。古代の巫女たちの伝説を手掛かりとして神道最大の聖地の謎が解かれるとき、天照大神と富士山、そして伊勢をつなぐ驚愕の「太陽の道」=日本のレイラインが浮かび上がる。封印されていた「常世」の真実を明らかっにする!

文=古銀剛

伊勢の知られざるパワースポット「斎宮跡」

 伊勢神宮に参拝するとなれば、ふつうは、まず内宮と外宮に向かうだろう。しかし神宮の歴史に関心を寄せる人には、ぜひその前に寄ってほしい場所がある。
 それは「斎宮跡(さいくうあと)」である。内宮から北西に15キロほどのところ、近鉄山田線「斎宮駅」を降りてすぐの場所(三重県多気郡明和町竹川)で、現在では隣接して斎宮歴史館が建っている。

 斎宮とは、斎王(さいおう)あるいは斎宮と呼ばれる、天皇の名代として朝廷から伊勢に遣わされた、伊勢神宮のアマテラスの祭祀を司る未婚の皇女が暮らした御所のことだ。
 斎王は南北朝時代の第74代祥子内親王(しょうしないしんのう)を最後に廃絶してしまい、斎宮は現在「斎宮跡」として遺跡が残るのみである。しかし、近年に進められている発掘調査により、平安時代には斎宮は東西2キロ、南北700メートルにわたる敷地を有していたことがわかっており、広大な御所には500人もの役人が務めていたという。そしてその主役たる斎王は、重要な神事があるときは神宮に出仕するが、それ以外はほとんど斎宮に閉じこもり、神に仕えてひたすら精進潔斎の日々を送ったのである。

ph1-07・斎宮跡Saio_no_Mori

斎宮跡地の中央部(斎王の森)にある「斎王宮址」の石碑。

 ところで、この斎宮が、神宮の歴史を知るうえでなぜ重要なのか。
 それは、斎宮・斎王のルーツが伊勢神宮のルーツと深く関わり、しかもここがある「道」の重要なポイントでもあるからなのだ。

 ここで『日本書紀』の記述をベースに、斎宮・斎王の起源を追ってみることにしよう。

伊勢のルーツを語る斎王ヤマトヒメ伝承

 時は、崇神天皇の御世にさかのぼる。
 崇神天皇は大和の磯城瑞籬宮[しきのみずかきのみや](奈良県桜井市金屋付近)に都を置いた第10代天皇で、実在性が高く、古代ヤマト王権の強力なリーダーだったと目される人物だ。実在していたとすれば、その治世は古墳時代に属する2~3世紀頃になるだろう。
 天皇はアマテラスとヤマトオオクニタマ(倭大国魂神)の2柱の神を宮中に祀って日々祈りを捧げていた。しかし、国中に疫病がはやり、争いが生じるようになると、これを神の祟りとみた天皇は、皇女トヨスキイリビメ(豊鋤入姫命)にこう命じた。
「アマテラス大神を大和の笠縫邑にお遷しして、お祀りしなさい」
 神の強烈な霊力を畏れた天皇は、アマテラスとヤマトオオクニタマを引き離して宮中の外に祀り、霊威を衰えさせようと考えたのだ。トヨスキイリビメは父帝の命令通り、アマテラスの神霊が宿る鏡を王宮から大和の笠縫邑に遷して祀った。これで神威はとりあえずは鎮まったが、大神はまだ満足した様子を見せない。
 そうこうするうちに時代は移り、次の垂仁天皇の御世となった。
 先帝同様アマテラスの神威を畏れつづけたこの天皇は、あるとき妙案を思いついた。
「大神ご自身に、ご自分が鎮座するにふさわしい土地を探してもらったらどうだろう」
 そして、老いたトヨスキイリビメに代わって、今度は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメ(倭姫命)を呼んだ。彼女はまだほんの少女であったが、神憑かりしやすい体質をもった、生まれながらの巫女だった。天皇はヤマトヒメにこう命じた。
「アマテラス大神の御杖(みつえ)となって、大神をお祀りするにふさわしい地を訪ねあてなさい」
 そこでヤマトヒメは神鏡を奉じて大和を旅立ち、東に道をとって宇陀(あだ)の篠幡(ささはた)をめざしが、この地を良しとするアマテラスのお告げは聞こえない。やがてヤマトヒメは近江に入り、苦しい旅をつづけながら美濃をめぐって伊勢に至った。そのとき、ヤマトヒメの耳に、ついにアマテラスの言葉が響いた。
「伊勢国は常世からの波がしきりに打ち寄せる国だ。大和からは隔たった地ではあるが、美しい、すばらしい国だ。私はここにいたい」(神風[かむかぜ]の伊勢国は、常世[とこよ]の浪[なみ]の重浪[しきなみ]帰[よ]する国なり。傍国[かたくに]の可怜[うま]し国なり。是[こ]の国に居らんと思う)」

「常世」とは、海の彼方にあると信じられた神仙の住まう理想郷のことだ。この神託に躍り上がって喜んだヤマトヒメは、伊勢国に社(祠)を建ててアマテラスを祀り、自分は五十鈴川のほとりに斎宮を建てて住み着いた――。

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『伊勢参宮名所図会』より、伊勢をめぐるヤマトヒメ(国立国会図書館蔵)。

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垂仁天皇の皇女で、アマテラスを伊勢に鎮座させたヤマトヒメ。『神仏図会』より(国立国会図書館蔵)。

海に近い「斎宮跡」が初代神宮の鎮座地か?

 後世、ヤマトヒメにまつわる伝説はさまざまに膨らんでゆくのだが、これが『日本書紀』に記された斎宮・斎王の起源伝承の骨子である。
 トヨスキイリビメもヤマトヒメも神話的な人物だが、伊勢神宮では、トヨスキイリビメを初代斎王、ヤマトヒメを2代斎王に置いている。そして、ヤマトヒメが伊勢に建てた社こそが伊勢神宮(内宮)のルーツとされ、伊勢神宮ではこの伝承にもとづき、垂仁天皇26年を創建年としている。

 ここで問題になるのは「五十鈴川のほとりに斎宮を建てた」という記述だ。
 ご存じのように、「五十鈴川」といえば、内宮の宮域を通って伊勢湾に流れ込む清流だが、例の「斎宮跡」はこの川から10キロ以上も北西側を流れる祓川(はらいがわ)のほとりにある。
 つまり、ヤマトヒメが建てたという五十鈴川のほとりの「斎宮」と、祓川のほとりにある「斎宮跡」を、イコールで結びつけることはできない。しかも、斎宮跡の発掘調査では、今のところ平安時代以降の遺構や遺物しかみつかってない。したがって、原初の斎宮は五十鈴川沿いの内宮のそばにあって、後になって現在の祓川沿いの「斎宮跡」に遷った、という見方が通説になっている。
 しかし、これには異論も多々ある。たとえば、五十鈴川とは固有名詞ではなく、「イスギ(洗い灌ぐ)川」つまり「みそぎ」のための川を意味し、現在の祓川のことを指しているとみて、斎宮跡をまさにヤマトヒメが創建した「斎宮」の跡地に比定する説があるのだ。斎宮跡からいまだ奈良時代以前の遺構・遺物が発見されていないことを問題視する向きもあるが、この遺跡が非常に広大で、未調査の区画はまだ多くあることはおぼえておきたい。
 それどころか、この斎宮跡こそが原初の伊勢神宮の所在地であり、アマテラスの奉斎のために広大な宮地が求められた結果、持統朝になって神宮が遷され、現在の五十鈴川沿いに内宮が造営され、斎宮と神宮が分離したのだ――そうとなえる論者もいるくらいだ。

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斎宮跡と伊勢神宮(外宮・内宮)の位置関係。

 たしかに斎宮跡は海岸にさほど遠くなく、古代にはもっと近くまで海が来ていたことを考えれば、斎宮跡こそが「常世の浪の重浪帰する国」という表現にふさわしい土地だろう。
 斎宮と神宮の草創については諸説が入り乱れ、推測しか成り立たないのが現状だが、少なくとも、伊勢神宮とアマテラスに奉仕する斎王の居所であった「斎宮跡」の地が伊勢神宮の領域とされていたことは確かである。そしてそこは、伊勢神宮の領域のなかで、最も都に近いところでもあったのだ。

「日読み」に絶好の地

 ここで視点を、伊勢から、初代斎王トヨスキイリビメと2代斎王ヤマトヒメの故郷である大和へと戻してみよう。

 まず、トヨスキイリビメの故郷はどんなところだったか。
 彼女の父崇神天皇が営んだという磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、大和地方のシンボルである三輪山の西南麓にあったとされている。そして、この地に鎮座する志貴御県坐(しきみあがたにます)神社が宮の伝承地になっていて、境内には「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が立っている。しばしば日本最古の神社と称される大神神社に隣接する場所で、邪馬台国との関わりを指摘される纒向遺跡や箸墓古墳にも近く、古代史研究者のあいだでは、この三輪山の麓一帯が原始ヤマト王権発祥の地とも目されている。

ph1-08・三輪山RIMG0140

古代ヤマト王権のシンボルである三輪山。大神神社の御神体でもある。

 ところで、宮の伝承地である志貴御県坐神社については、興味深い事実がある。
 この神社の真西の方角には、『万葉集』などにも詠われる、雄岳と雌岳の2峰からなる二上山がそびえているが、春分と秋分の時期、宮跡に立って夕日を眺めていると、空が晴れていれば、二上山の2つの峰のはざまに陽が沈み落ちる、ロマンチックな光景を見ることができるのだ。
 それだけではない。宮跡の東北には三輪山、東南には「磯城富士」の異名をもつ秀麗なかたちをした外鎌山(とかまやま)(忍坂山)を望むことができるが、夏至であれば、宮跡から見て三輪山の頂上から太陽が昇り、冬至には外鎌山の頂上から太陽が出る。

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崇神天皇の磯城瑞籬宮から見た太陽の方位。稲作では四季に合わせて作業をすることが重要になるが、ここは季節の移り変わりを計るのに理想的な場所である。

 これらのことは、とても偶然とは思えない。
 農耕民にとって、四季の変化や太陽の暦が、種まきや刈り入れなど、農事のタイミングをはかるのに重要な役割を果たしてきたことはいうまでもない。そう考えると、春分・夏至・秋分・冬至という四季の節目をいながらにして知ることができる「磯城瑞籬宮」は、山と太陽の位置関係を天然のカレンダーとして利用できる「日読み」の適地であり、農事を中心とする社会を指導・統治するのに、絶好のポジションだとわかる。また、原始太陽信仰をもつ社会であれば、太陽の運行にあわせて行う祭祀の時期を知るにも、ここはうってつけの場所だろう。

 崇神天皇は第10代天皇に数えられているが、古代史の通説では、初代神武天皇から9代開化天皇までは実在しない架空の人物で、実在したのは第10代の崇神天皇から、ということになっている。『日本書紀』にわざわざ記された崇神帝の異名「御肇国天皇[はつくにしらすすめらみこと](初めて国を統治した天皇)」が、ほかならぬその証しだ、というのはよくいわれることだ。
 実質上の初代天皇の宮が、太陽の四至を知るに絶好のポジションに位置していた。――このことは、古代ヤマト王権が太陽の観測や祭祀と不可分の関係にあったことを、そして何よりも「日(太陽)の御子」と称された古代の天皇(大王)が強固な太陽信仰を有していたことを、どんな史料よりも如実に物語っているのではないだろうか。

「大和の笠縫邑」は太陽祭祀の聖地だった

 トヨスキイリビメは、天皇である父のもと、こんな背景をもつ、三輪山麓の磯城瑞籬宮で育ったわけだ。「日の御子」の娘として生まれた少女は、太陽のめぐりを日々、からだで学び取っていったにちがいない。
 では次に、そのトヨスキイリビメが、父の命を受けてアマテラスを遷し祀ったという「大和の笠縫邑」とは、どんなところだったか。
 この場所については、三輪山の西北麓に鎮座する檜原神社を跡地とするのが定説になっている。というのも、檜原神社は明治時代からは大神神社の摂社となっているが、古くは日原社と呼ばれてアマテラスを祭神としており、この一帯が古くは「笠縫里」と呼ばれていたとする伝承もあるからだ。
 檜原神社へは、磯城瑞籬宮跡(志貴御県坐神社)から、古道「山辺の道」をたどって、大神神社を経由して徒歩1時間程度でおもむくことができる。奈良盆地の東縁を走る「山辺の道」は、飛鳥と奈良(平城京)を結ぶ日本最古の官道といわれる。おそらく崇神帝の時代から歩かれていたにちがいなく、トヨスキイリビメの白い足もきっとこの道筋をたどっていたことだろう。

ph1-09・檜原神社RIMG0105

崇神天皇の時代にアマテラスが遷し祀られた笠縫邑に比定されている大神神社の摂社・檜原神社。三ツ鳥居が特徴だ。

 檜原神社は大神神社と同じく本殿がなく、三輪山を御神体として斎庭(ゆにわ)から直接拝するかたちをとっている。参拝者には、斎庭の西面に立つ、左右の鳥居の半分を付けた三ツ鳥居(三輪鳥居)が印象的だ。
 だが、この神社で参詣する人をもっともひきつけるのは、境内から西方に望む、奈良盆地の雄大な景色だろう。ここは山麓のやや小高い位置にあるので、広い盆地を眼下におさめることができ、さらにそのはるか向こうには、二上山とそれに連なる山脈を眺めることができる。

ph1-10・檜原甚亜RIMG0108

檜原神社の鳥居からは、西方向に二上山を遠望することができる。

 そして、この地にもまた興味深い事実がある。
 神社から、はるか西方の山脈を眺めていると、ちょうど真西の方角にⅤ字形の切れ目を見つけることができる。北側の生駒山脈と南側の金剛山脈(二上山を含む)を分ける穴虫峠だ。太陽は毎日、背後の三輪山側から昇って、この山脈の向こう側に沈んでゆくわけだが、春分と秋分の日には、太陽はこの穴虫峠の地点にすっぽりと吸い込まれるようにして沈んでゆくのだ。檜原神社の鳥居越しに、峠の向こうに落陽が消えてゆく光景は、まさに感動的だ。
 しかも、檜原神社と穴虫峠は、標高がほぼ同じ140メートル付近に位置している。つまり、水平線上にあるのと同じことになるので、太陽の運行を目視で正確に計測することができる。春分・秋分の観測地点としては、檜原神社はこれ以上はないという理想的な場所なのだ。

三輪山の真東に現れる意外な「宮」とは

 四方を山にめぐられた盆地という地形では、こうしたスポットはそうそう見つかるものではない。
 トヨスキイリビメが太陽神アマテラスを、暦の重要な基点である春分・秋分を正確に観測できる檜原神社=笠縫邑に祀ったのは、決して偶然ではない。それは必然だったのだ。そして古代人にとって太陽の観測とは同時に祭祀であり、〈日祀り〉であった。トヨスキイリビメはここで日々、太陽の暦をはかりながら、太陽神の祭祀を行っていたのだろう。
 檜原神社に本殿がないのは、御神体の三輪山を直接拝するからだ、ということになっている。だが、どうだろう。かつてトヨスキイリビメは、朝は日の昇る東の三輪山の方角へ、夕方は日の沈む西の穴虫峠の方角に向かって拝礼し、いわば太陽を御神体として日々祭を行っていた。だからこそ、御神体を安置する本殿が建てられなかったのではないか――そんな想像すらしたくなってくる。

 しかし、この程度で驚いてはいけない。
 笠縫邑からみた春分・秋分の日の落日線は穴虫峠を通過するわけだが、では、日の出線はどこを通るのだろうか。
 むろん神社の正面にそびえる三輪山の東の向こうから朝日が昇ってくるわけだが、神社側はすでに小高い位置にあるので、山の端からのぼるご来光を拝むには不向きだ。つまり、ここは日の入りの祭祀には格好の場所だが、日の出の祭祀には不向きということになる。
 そこで、この檜原神社を観測点とした春分・秋分の日の出・日の入り地点を結ぶラインを、今度は檜原神社から真東にずっとずっと伸ばしてみる。――すると、ある「宮」にピタリとたどり着く。

 その「宮」とは――なんと、伊勢の「斎宮」なのである。

 すなわち、春分・秋分の朝、太陽は、ヤマトヒメが伊勢で最初にアマテラスに祀った地がある方角から昇ってくるのだ。

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春分と秋分の日、太陽は檜原神社から見て真西にあたる穴虫峠の向こうに沈む。しかも、檜原神社と穴虫峠は、奈良盆地をはさんでほぼ同じ標高に位置している。したがって、檜原神社は太陽観測に絶好のポイントであるといえる(©Google Inc.)。

日本を横断する知られざる「太陽の道」

 地図を広げてみよう。
 まず、穴虫峠、笠縫邑[かさぬいのむら](檜原神社)、伊勢の斎宮跡の3つのポイントを線でつないでみる。すると、見事にきれいな1本の直線が浮かび上がる。畿内を東西に貫くこの線は、笠縫邑を基点とした春分・秋分の太陽の運行を表し、緯度にすると、北緯34度32分。
 長年このラインを調査研究して『大和の原像』を著した奈良在住の写真家小川光三氏は、この「北緯34度32分」のラインを〈太陽の道〉と名付けた。1980年には、この小川氏の仮説をもとにNHKで『謎の北緯34度32分をゆく――知られざる古代』という特集番組が放映され、大反響を呼んでいる。年配の読者の方には、ご記憶の方も多いはずだ。また、放映後にはこの番組のプロデューサー水谷慶一氏による『知られざる古代』も上梓され、〈太陽の道〉が改めて脚光を浴びている。

 ここで、〈太陽の道〉をまず笠縫邑から斎宮跡へと東にたどってみよう。するとどうだろう、興味深いことに、このルート付近上には「太陽」との深い縁を示すスポットがつぎつぎと現れてくるではないか。
 たとえば、笠縫邑から東に発した〈太陽の道〉は、三輪山の山頂のやや脇を抜けると、初瀬の長谷寺に至る。

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参詣客で一年住にぎわう奈良の長谷寺。本尊の十一面観音をアマテラスの本地(本来の姿)とする信仰がある。

 長谷寺といえば本尊・十一面観音の巨仏が有名だが、この像の向かって左には雨宝童子像が脇侍として安置されている。雨宝童子は神仏習合によって生じた仏尊だが、じつはアマテラスが下生したときの姿とされている。また、この初瀬には、アマテラスが斎王のヤマトヒメとともに8年間とどまったという伝承があり、さらには長谷の観音こそがアマテラスの本地だとする信仰もあるのだ。また、長谷寺の門前をお伊勢参り用の伊勢(初瀬)街道が通っていることも見逃せない。

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宝珠をもつ天照大神(下)。神仏習合の世界では、これが雨宝童子の姿であるともいわれている(やよい文庫蔵)。

 次に注目したいのは、宇陀市榛原地区にある篠畑(ささはた)神社だ。北緯34度32分からはやや北側に位置するが、ここは、先に紹介した『日本書紀』のヤマトヒメの巡幸伝承で、ヒメが大和の次に着いた地「宇陀の篠幡」に比定されている神社で、アマテラスを祭神としている。
 さらに東に進むと、〈太陽の道〉は女人高野(にょにんこうや)で有名な室生寺の真上を通る。室生寺は洞窟が点在する室生山の山麓から中腹を境内とし、門前を室生川が流れているが、点在する洞窟は、古来水の流れを司る龍のすみかとされ、龍穴と呼ばれて神聖視された。つまり、室生寺は龍神信仰の聖地を淵源としている。

 ところで、中世、アマテラスは蛇を化身とするという伝承が広まったことがあった。「アマテラス=蛇神」伝承については神仏習合の影響などを指摘する説もある。しかし、日本では龍と蛇がしばしば同一視されてきたことに着目したい。するとどうだろう、〈太陽の道〉が通過する室生の龍神信仰が、「太陽神アマテラス=蛇体」伝承の背景に浮かび上がってはこないだろうか。とぐろを巻く蛇を太陽のシンボルととらえることもできるだろう。

ph2-14・室生寺RIMG0003

「太陽の道」上にある古刹・室生寺。ここにもアマテラスにつながる信仰の痕跡がみられる。

 室生寺を過ぎると、〈太陽の道〉は御杖村の脇を通る。御杖村には、ヤマトヒメが築いた別宮の故地とされる御杖神社が鎮座している。社名の「御杖」は、アマテラスの「御杖代」となったヤマトヒメがこの地に立ち寄ったことにちなむとされている。

 また、このミステリー・ラインは斎宮跡で終点と思いきや、さらに線を伸ばしてゆくと、伊勢湾の入口に浮かぶ神島(かみじま)に突き当たる。神島といえば、元旦未明に行われるゲーター祭が有名で、グミの木を編んで作った直径2メートル弱の輪を長い竹にさして空高く突き上げるのが見どころになっている。このグミの輪は日輪のシンボルで、東の空を仰ぎながら行うこの祭りは、本来冬至に行われるべき、太陽霊の復活祭であると考えられている。古墳時代からの祭祀遺物が発掘されているこの島には、古代から太陽信仰があったのだろう。

 このように、〈太陽の道〉上には、太陽信仰の聖地が誰かの足跡のように点在し、斎王ヤマトヒメの巡幸伝承ともオーバーラップしてくるのだ。
 ちなみに、笠縫邑から斎宮跡までの距離は東西に約70キロ、これに対して南北のズレはわずか100メートルほどにすぎない。地図も磁石もない時代だったことを考えれば、驚くほどの正確さだ。

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檜原神社(笠縫邑)を基点に東西に走るラインは、さまざまな聖地や遺跡を通って、伊勢の斎宮跡に到達する。北緯34度32分に位置するこのラインは、春分・秋分の日の出・日没の方向を示す「太陽の道」だ。

西の「太陽の道」と、もうひとつの「伊勢」

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